華 −HANA−



 一年の最後の月を「師走」と書くのは知ってはいても、実際にこんな夜更けに師とともに走ることになるとは陸奥陽之助は思ってもいなかった。
 もうすぐ慶応二年に別れを告げる除夜の鐘も鳴ろうかというのに、いきなり竜馬は
「今夜は痺ったのう」
 と訪ねてきたのだ。
 九州長崎とはいえ、たしかに痺れるほどに今夜は冷える。
「陽之助、おんし、ちっくとばかり金は持っちゃぁせんか」
 首にあたたかそうなフランネルの布を巻きつけて、竜馬は何人もの志士たちを蕩らしこんで信頼を得てきた、例の懐っこい笑顔で陽之助にたずねた。
 竜馬がどのくらいの金額のことを言っているのはわからなかったが、こうやって来るからには、陽之助に私的に融通してほしいに決まっている。だいたい、陽之助にはいつ竜馬が長崎に来ていたのか、そしていつまで滞在するのかもわからない。
「坂本さん、とつぜん来られても、なんちゃぁじゃしちゃーせきよ。余分な金らぁてあるわけないろう」
 腹立たしげに言った陽之助に憎らしくも竜馬は言った。
「ほんなら陽之助、大ごとじゃ。一緒に逃げとうせ。わし、追われちゅうがきに」
 陽之助には、なぜ自分が追われなければいけないのかまったくわからなかったが、気がつくと着の身着のまま、この寒空のなかせまい坂道を竜馬と一緒に肩を並べて走るはめになったのだ。
(くそう、なしてこうなるんろう……)
 もうとっくに床に入る時間で、頭も身体も休息に入ろうかというところにこの仕打ちだ。ずいぶんと頭にもきていた陽之助は、若さにあかせて竜馬をぶっちぎろうと、さっきから脛を飛ばしている。もちろん薄着で飛び出してきてしまったせいで、身体を動かしていないとやたらに寒い、というのもある。
 竜馬はといえば、近目のうえにこの夜道で──
「おうっ!」
 と声がしたときには干上がった水たまりのくぼみに足をとられてすっころんでいたし、
「なんじゃ、こりゃ〜」
 と情けなさそうな叫び声がしたときには、竜馬はドブに片足を突っこんですさまじい悪臭をただよわせていた。
「……坂本さん、ほら。こっちに足を出しとうせ」
 陽之助は自分が汚れるのも厭わず、手ぬぐいを出して竜馬の足をぬぐった。
 ぼさぼさの蓬髪で、近目のためにほとんどいつも眉を寄せて目を細めている竜馬が、途方に暮れた様子でいかにも哀しそうに片足を引きずっている姿を見ると、竜馬とは九つ年の離れている陽之助でも、なぜか世話をやかずにはいられなくなってしまう。
(すぐこうやって丸めこまれてしまうっちゃ。……なしてか、ようわからんが)
 思いながらも陽之助は、竜馬の足をこうやってぬぐっていることになんともいえない嬉しさを感じている自分を知っている。
(ふしぎな人じゃ)
 みな坂本さん、坂本さんと、お題目のごとくこの男の名を最後の頼みのように唱えるが、実のところの竜馬はこんなふうに手の掛かる年のいった子どものような存在だった。
 竜馬は裕福な郷士の家に生まれており、いってみれば育ちがよかった。もちろん竜馬自身できないことはないのだろうが、身のまわりのことからいろいろな段取りまで世話をやかれることにも慣れており、人の好意を素直に受けることのできる男だった。
 竜馬がどういった野心や野望を胸に秘めているのかはほとんどの人間には計りがたかったが、たしかにこの男の執拗なまでの説得と驚天動地ともいえる奇策は、冷静な分析と周到な根回し、そして一個人を超えた熱意とによってできていた。
 この一月に奇跡的に薩長同盟が成ったのも、天下国家を語る竜馬に西郷隆盛も桂小五郎も、それぞれの藩といういわばちいさな立場を超えて大道に手を貸す一種の爽快感と満足を感じたからでもあり、そこに竜馬の個人的な野望が鼻につくこともなかった。
 顔も美男子とは言いがたく、学問をかさにきて人をやりこめることもない。言うならば竜馬の説得はただひたすらに尋常でない熱意を持っての口説きであり、そのひたむきさゆえに、竜馬と関わって味方となった人間は、ついついこの男の言うことならば聞いてやろうか、竜馬のためならばなんとか一肌脱いでやろうか、という気にさせられてしまう。
 竜馬を慕う人間は、みな竜馬のそばにいることが好きなのだった。
 竜馬といても、特にとくべつな言葉を交わすわけでもないのだが、土佐人特有の大言壮語と陽性のてんごうで、男子たるものかくあらねばならぬ、となぜか思ってしまうのだ。
「こっちから行ったら中島川まで近道ながら、そこで足を洗えばえいろう」
 つとめてやさしく陽之助は言ったが、なんとなく悔しくなって最後に竜馬の臑毛を一本引き抜いた。
「痛っ」
「なんか妙な虫が噛んじゅう。つまんで捨てましたきに」
 フッと陽之助は竜馬の臑毛を吹いて飛ばした。
「おお、殺生はいかんぜよ。つまらん殺生は」
 もっともらしく竜馬はうなずいた。
「しかし坂本先生、一緒に逃げようち、いったいどういうことなが」
 悪臭を放つ手ぬぐいをふたたび懐に入れる気も起きず、かといって捨てるのも忍びなく、陽之助はいったいどうしたものかと思いながら竜馬に問うた。
「なんじゃ陽之助、先生なんちゅうのは、こそばゆうてイカンちやと言うたろうが」
 竜馬はのんびりとそんなことを言う。
(なに言うがか。こん手ぬぐいで顔ばこすっちゃろうか)
 皮肉がわかっているのなら理由くらいは説明してほしい、と陽之助は思う。
「まあ、言うなれば男子の一生において不滅の問題が持ちあがったんじゃ」
 竜馬の言葉は、白い息ともに吐き出された。
 陽之助は大きく息を呑んだ。
 男子一生の不滅の問題……。
 それがいったいどのような壮大な難事なのか陽之助には想像もつかない。
 瞬間、ぶるっと胴震いが走ったのは、寒さのせいではなく、目のまえの巨きな男のせいであった。
(坂本先生は、途方もない仕事をしゆう。それにくらべてこのおれは……)
「先生、なんちゃあ言うとうせ。陸奥陽之助、先生のためならなんでもしますきに!」
 手ぬぐいをにぎりしめ、陽之助は悲鳴のように叫んだ。手ぬぐいの臭さも、ドブの底の腐った土が手のひらにまみれることも、陽之助には関係なかった。
(先生……!)
 感激に目をうるませる陽之助に、竜馬は悪びれず言った。
「そうじゃのう……ちうことは、まず金じゃ」
「なんですろう、ほりゃあ一体どがな金なが」
 竜馬のためには亀山社中の蔵を空にしてでも小判を積もう、と陽之助は決心していた。
「……おなごじゃ」
「そうですか、やっぱりおなごは難しかですか。ほりゃあどがなおなごですろう?」
 意気ごんで聞きかえしたものの、陽之助は竜馬のにやついた口元を見た瞬間、「おなご」の意味がようやくわかった。
「おなご言うんは、男に対しての女ちうことですろうか……」
(おれは阿呆を聞いちゅう)
 言いながらも馬鹿らしいと陽之助は思った。さっきいまの日本にこれほどの巨きな男はいない、と信じたのは、単にボーッと長身を突っ立たせているだけの男にすぎなかった。
「そうなんじゃ。……なんじゃ、陽之助はおなごを知らんなが? おなご言うたら、えい匂いがして優しうて綺麗で時々怖くて、そして……やらしてくれるもんじゃ。やっちゅうときは夢の中かと思うぜよ。そうか、おんしゃー知らんがか」
 竜馬はニタニタと陽之助の顔色の変わるさまをながめている。
「円山のおなごが……なんち言うても、そのおなごもはちきんやったきに、なんとも進退窮まってしもうたぜよ。つぎは陽之助を連れて上がろうかね。きれえなおなごがこじゃんとおるがね。おんしゃー、きっともてろうね」
「坂本さんは、おれに花代を払えと言うがかぇ」
 個人的なことでからかわれて照れくさくて気恥ずかしいのと腹が立つのとで、陽之助はことさらに声が高くなった。
「しかも坂本さんにゃ立派なおりょうさんちう人がおるがやき、遊んでばかりで恥ずかしくないなが」
 竜馬は今年早々、楢崎龍という、ちょっと怖いようなものすごい美女と結婚し、行く先々に龍を連れてまわり、始終べたべたとくっついていた。人目もはばからず手をつなぎ、それも指をからませて仲むつまじく道を歩いていたりするのを陽之助も目にしているのだ。
 それがなんとこの男は龍だけでは飽きたらず、円山遊郭で女をコマシ、なんとも抜き差しならなくなってしまったとあっけらかんと告白するのだ。
(こん人は、おりょうさんもじゃけど、円山の綺麗どころとまでやっちゅうとは、なんとうらやましい……いや、情けない。しかし、こん人のどこにおなごが参るんろう……。床のなかでどがなことをしちゅうがやろか)
 女には優しいのだろうか。
 たしかに、竜馬には包容力とでもいうほかないものがある。
 立場や主義のちがう者の話も根気づよく耳をかたむけるし、けっして否定的なことから話を始めはしない。
 竜馬が例の笑顔で「ええっちゃ、ええっちゃ」と愛嬌たっぷりに言うと、殴り合いになりそうな談合の場もなぜか和やかになるし、遊郭でも無沙汰を愚痴る女の勘気が、竜馬の口車に乗せられてたちまちに治まるのを陽之助も実際に見ていたりもするから、やっぱり男は容姿ではないのだ。
 陽之助の握りしめた拳から、ドブの匂いが立ちのぼる。
(たしかに、おなごには一生振りまわされるのやろうし、不滅の問題かもしれんが、それをほがぁに大げさに言うことはないろう)
「ほがなことを言うたち、大晦日やき仕方ないぜよ。ふつうの晦日ならともかく、大晦日は掛け取りに来るちうのをすっかり忘れちょったが。あの人たちも年を越さんといかんのやき、金はきちんと払わんといかんろう」
(金もないがに、ほがな処に行くほうが悪い)
「はや先生のことなんか知りやぁせん。勝手にしとおせ」
 陽之助は肩をいからせ、ひとりでずかずかと川岸へと向かった。頭に血がのぼっているのが自分でもわかっていた。 
 とつぜん、バキバキッとものすごい音とともに、陽之助の目の前にあっという間に地面が迫ってきた。
「うをっ!」
 手をつくひまもなかった。
 気がつくと、なにかに足をとられて前のめりにすっ倒れていたのだった。
「おい、陽之助。なんちゃあがやないなが。怪我はないろーうか?」
 上から竜馬の笑いをふくんだ豊かな声が降ってくる。
 足首がずきずきする。いや、したたかに打ったせいで痺れている、といったほうがいいのか。
「……怪我は大したことないがで……せんばん、へごなやき」
「おんしのまっこと低い鼻がもっと低くなりはしやーせんか、わしはこじゃんと心配じゃ。なんちゃあないなが?」
 竜馬は小憎らしくからかう。この寒いのに、きっと暑苦しい笑顔をしているにちがいない。
(しょう、まっこと腹のたつ)
 冷えきった土くれが、陽之助の頬にざらりと当たる。ひと握り土を握りしめ、陽之助は立ちあがった。
 ……最悪の年の瀬だ。
「いかんちや。ここは三つくらいかのう、かわいい女の子がじんばと花畑を作っちょった場所ちや」
 子どもにでも言いきかせるような優しい口調で竜馬は意外なことを言った。
「花畑?」
「そうちや。冬には花が少ないきに、水仙が楽しみじゃと言うて、その子はこれくらいの背だっかかぇ」
 と竜馬は自分の膝のあたりに手をかざし、
「いつじゃったか、じんばとふたり、楽しそうに植えちょった……」
 暗がりでも、竜馬が真夏の向日葵のような顔をしているのが陽之助にはわかった。
 竜馬は陽之助が突っこんでへし折った柵の残骸からなにかを拾いあげ、陽之助の眼前にぬっと突きだした。
「入ルベカラズ」
 たどたどしい金釘流で立て札が作ってあった。その幼女の祖父が孫娘のために愛情をこめて書いたのだろう。
 陽之助の足元には、水仙とおぼしき葉が踏み倒されていた。
「そりゃ悪ぃことをしてしもうた……おれ、朝になったらどこの子かわかりやーせんが謝りに行きゆうから」
 しおたれた葉に申しわけ程度に手を添えて、陽之助は手の届くかぎりの葉をせいいっぱい元どおりになるように復元した。竜馬もかがみこんで手伝った。
 冷えた手をこすりながら、陽之助はあらためてこの竜馬のふしぎさを思った。
 いつ、この花畑を見ていたのかはわからないが、蓬髪にふちどられた竜馬の頭のなかには、日本の国事と花畑をつくるふたりの光景とが、まったくおなじようにしまいこまれているのだ。
「そうじゃ、年明けに中岡先生が薩摩に行くちいう話ですが」
 思いだして陽之助は言った。
「おお、慎太か。あいつはせんばん活躍しちゅうようやきが。けんど、慎太はいごっそうで真面目やきなあ、こじゃんと敵ができてしまわんかと、ちくっと心配やなぁ」
 中岡慎太郎。
 竜馬よりも三つ年下のこの男は、竜馬と同じく周旋家である。 
 土佐国安芸郡北川郷の大庄屋であったが、武市半平太の勤王党に参加して尊攘運動に身を投じることになった。
 竜馬とは土佐にいたころからの盟友であるが、中岡はあらゆる意味で竜馬とは対照的な男である。
 背も五尺そこそこしかないが、一途そうな眉があらわすように一徹で努力家、舌鋒鋭く、その理はつねに正論であった。だれよりも長州系の公家たちや長州の志士たちに信頼され、中岡の尽力があってこそ薩長同盟も成った。根が真面目なだけに、熱くなると竜馬とも掴みかからんばかりの激論を戦わすが、ふしぎとこのふたりはうまが合い、なにくれとなく連絡をとりあっている。  
「慎太も顔が利くようになったし、そうだなあ、あいつはとくに責任感の強いやつやき、なんちゃぁじゃかも背負いこきしまわないかぁ、わしは前から心配しちゅうのよ」
「男として一花咲かせよう、ち言う気持ちはわかるがでよ」
「花か……。なあ、陽之助」
 竜馬はしゃがみこみ、足元の水仙を覗きこんだ。
「おんしゃぁ、この水仙をいま咲かすることがこたうろうか」
 陽之助は竜馬を見た。その目を細めて、考え深げに傾いだ水仙の根元に土を盛っている横顔を。
「この水仙は、わしらぁがどがぁに言い聞かせたところで、いま花を咲かせるもがやない。ほがなことをしのうても、土に栄養をやり、陽にあてて水をやれば、時期が来れば忘れずに花を咲かせる。たとえわしらぁがこん花のことを忘れていても、時期が来れば花が咲く」
 竜馬のやさしげな言葉が水仙の葉を撫でている。
「いま無理にこの花を咲かそうとしたち、きっと枯れるばあろう。花も咲かにゃぁいかん種がこたうこともない。焦って一時の成果を望もうとしてち、朽ち果ててしまうばあろう……ああ、年が明けるなあ」
 竜馬のその言葉に首をめぐらせた陽之助の耳に、かすかな除夜の鐘の音が、寒空をふるわせるようにきこえてきた。
「ああ、臭うてかぇわんよ。新年早々これじゃあいい男が台なしじゃ。陽之助、きれいな水で禊ぎじゃ」
 竜馬は陽之助の肩をたたき、声をひそめて言った。
「……ほき相談なんやけんどほかでもない、円山での花代、なんらぁ融通してくれんかぇあ。わし、ずっと恩にきるんだけどなあ……ちっくと考えてみてくれよ」
 陽之助のところには、にったりとした竜馬の笑顔とともに慶応三年がやってきたのだった。






Copyright(c) 2005 Sakura KAZUHO all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-

 このあやしい土佐弁に関しては
こちらのサイトを参考にさせていただきました。
 
  
 土佐弁コンバータのページです。もう、ハマってハマって(笑)。

Welcome to Hiromaru!

「土佐弁講座」の
佐弁の語尾には、基本的に「ねずみ、猿、猫がいる。」と覚えてください。
(例)

知っている=知っちゅう(ねずみ)
知っているから=知っちゅうき(猿)
知っているからねぇ=知っちゅうきにゃ(猫

には笑えて仕方なかったです。

    


55 STREET / 0574 W.S.R / STRAWBERRY7 / アレコレネット / モノショップ / ミツケルドット