春 風



「旭」
 と、義仲は盛衰をともにした葦毛の木曽馬の名を呼んだ。
 凍てついた冷気が頬を刺すようになぶり、鞍上している旭の背からは汗が湯気となってたちのぼっている。その速脚をかつてないほど使わせた愛馬に劣らず、義仲の吐く息も白かった。
「いましばらく辛抱してくれよ」
 甲斐の一条次郎率いる六千騎、土肥次郎実平の二千騎という敵勢のなかを駆けぬけて、よくも命がまだあったものだと安堵したのもつかのま、義仲は背を叩いて旭の労をねぎらい、かるく鞭を当てた。
 後ろにつき従ってくる者が何名であろうともかまわなかった。ここまできたからには、おのおのが生きる理由、死する理由をみつけるべきであろう。
 皮肉なものでこの木曽馬は、義仲が将軍を拝命した際に、木曽からつれてきたなかでいちばん気高く美しい葦毛に義仲自身が「旭」と名づけたものだった。旭は身体つきが巨きくたくましいだけではなく、額にうっすらと丸く鹿毛が混じったのが昇りゆく太陽にも見え、まこと慶事を祝うにふさわしい馬だった。
 しかし、東国の木曽より西へ西へと攻めのぼり、自身が昇る太陽のさながらに、栄華をきわめていた平家を西海に押しやり、「朝日将軍」と呼ばれた義仲も、いま、敵に攻めたてられて愛馬にまたがり疾走する姿は、すでに落日の敗将のものだった。
 ここまでか。
 それともまだ、おれは前へと進めるのか。ゆこうとおれは思っているのか。
 義仲は、木曽を後にするときもおなじように自問したのを思いだした。
 あれから、どれほどの年月がすぎてしまったのだろう。
 なつかしい木曽でのできごとは、どれもがくっきりと色づいたまま義仲の胸にしまわれており、まるで昨日のことのようにも思えたし、都での日々はあっというまにすぎていったのにも関わらず、自分がずいぶん歳をとってしまったような気がした。
 思えば、打倒平家を謳った以仁王の令旨に応じ、市原で挙兵して笠原頼直を倒してから四年というあいだ、義仲はずっと絶えず戦ってきたのだ。ときにそれは平家の武将たちであり、身内の無理解であり、院をはじめとする朝廷の権威であり、義仲にとっては鵺のように正体不明であった政治というものであり、妻や子に対する恋慕の情であり、木曽への望郷の念であり、また同族の頼朝が率いる鎌倉軍でもあった。
 旭日昇天の勢いだった義仲も、いまはあまりにも非力だった。いつもはなんとも思わぬ鎧までもが義仲の身体をきつく拘束し、重くのしかかってくる。ふと首をめぐらせると、入洛したときは五万騎を数えた兵は、いまは自分をふくめてわずか五騎しかいなかった。 そのなかにはなによりも心強い、わが忠実なる腹心にして右腕でもある今井四郎兼平、そして女の身でありながら大将として一千余騎を従えたこともある巴がいた。
 だれもがこれからのことを悟り、納得して受け止めている眸をしている。
 嗚呼。
 義仲は嘆息した。 
 いまの心情をいうならば、ただひとこと「無念」であった。
 義仲は元服の折りに打倒平家を神に誓ったものの、正直にいえばこれからの自分の運命に平家と交錯することが実際にあるとはとても思えなかったのだった。
 このまま木曽で朽ち果てることをなかば覚悟もしており、それでも千載に一遇の機会を信じて、自身の武芸の鍛錬はもちろんのこと、郎党を増やし、結束を固めるためにあらゆる根回しや手はずを調えた。すべての備えは無駄になるのかもしれなかったが、そのときどきの自分ができるせいいっぱいのことを粛々と行い、いつ天の時が満ちてもいいようにと手を打ってはいたのだった。
 世に出るきっかけがなければ、源氏の裔といえどもただ名だけの男である。ゆえに義仲は以仁王の令旨を知ったとき、いまこの時期にめぐりあうように生まれてきたみずからの運命に、心の底から感謝した。機会さえあれば、歴史に名を刻みたいと思うのは、男として当然の気持ちでもあった。
 しかし軍団の将となり、義仲がつくづく実感したことは、なにかを成すということは決断の連続であり、のべつまくなしに責任がのしかかってくるということだった。
 倶利伽羅峠で平氏を破ったのちに、勢いに乗じて一気に京へのぼると決めたのも自分であった。いま思うならば入洛するまえに地方の武士をまとめ、自分に対するもっと強力な支持をとりつけることを考えるべきだった。頼朝が行っているのは、まさしくそれだった。義仲がしなかった、そしてできなかったことを、頼朝という男はやっている。
 自分は、木曽で雌伏していたときの周到さを、どうして都ではまったく失っていたのだろう。北中越、いや関東もふくめた武士たちの意志を統一していたならば、なにもあからさまに武力をちらつかせずとも、都に武士団の総意としての自分の存在があるというだけで朝廷に無言の圧力がかけられるはずだった。そうであったならば、いまのように四方八方を囲まれ、まるで野兎でも狩るように追い立てられるようなみじめな事態にはなっていなかったのかもしれなかった。
 いまとなっては軽率だったと悔やむしかないが、当時の義仲は時勢を失うのがなによりも恐ろしかった。あのときの自分にはまさに破竹の勢いというものがあり、勢いというものが、瞬時にして移り変わり、失われるものだということも義仲は知っていた。そして一度失ってしまった時勢をとり戻すことが至難の業であるということも。
 結局、義仲は政治というものを武力ほどには重要視していなかった。結果は行動のあとについてくるものだと信じ、輝かしい武功を持って入洛すれば、ありとあらゆる人間が自分にひれ伏し、受け入れてくれるだろうと期待もしていた。
 また木曽という、ほとんどの人間にはなじみのない土地から覇を争うに名のりをあげた義仲が都でなにかを成そうとするならば、ふつうのまわりくどい手順を踏んでいたのでは、覇権を争っている武士──たとえば頼朝の前ではかすんでしまう心配もあった。だれの目にもあきらかな武功を持ってすみやかに、しかも強引に事を運ぶのがいちばんの得策だと思われたのだ。そして、もちろん義仲の焦りの最大の原因は頼朝の存在であった。
 もう充分ではないか。
 駆けどおしであった旭の息が苦しげに不規則に白く吐きだされるさまや、わが身につけている赤地の錦の直垂が血を吸ってすっかりどす黒く変色し、唐綾威の鎧もうす汚れているのが目に入ると、義仲はひどく自分がみすぼらしく、みじめでちいさく思えた。なにしろ腰に吊ってある大太刀も斬人のたびに刃こぼれをし、なんとか鞘に収まっているものの、刀身が曲がってしまってもう抜くこともかなわない。
 義仲は、いままで躰のなかに蓄えてあった力も野心も、すっかりなくしてしまったことに気づいた。
 ああ、おれにはもう充分だ。
 義仲は自分にようやく答えることをゆるした。
 あきらめたのとはちがう。存分に生命を燃やし、熱いままに果てることができる。もう自分のなかにはほとんどなにも残ってはいなかった。出しつくした、というのが正直な実感だった。 
 義仲は言葉をさがした。 
 目のまえの巴は豪華な鎧を返り血で染め、三尺五寸の太刀と二十四指の真羽の矢の射残ったのを背負い、重籐の弓を左手に持っている。
 惚れぼれするほど華麗な武者姿だったが、いまの義仲には巴のことをこれほどに美しくかよわく、護るべき繊細な女だと痛感したことはなかった。
 今日がかぎりだと決意をしている自分が、女ながらに太刀を持ち弓矢を背負い、愛ゆえに武将としてともに修羅を越えてくれた巴に、いったいどんな言葉をかければよいというのだろう。
「そなたは女なのだから、すぐにでも、どこへでも逃げて行け」
 われながらおかしな言いぐさであると義仲は自覚していた。いまさら女であることを理由にするならば、巴に将のまねごとなどさせず、いや木曽から連れてこずにいればよかったのだった。だが、無理は承知でも、巴にだけは言わねばならなかった。
「おれは討ち死にを覚悟しているのだ。もし人手に掛かるようだったら自害をするつもりだ。木曽殿はよほど命が惜しかったのか、最後の戦いに女を連れていた女々しい男だ、などとはおれが死んだ後には言われたくはないのだ」
「殿……」
 義仲を呼ぶ巴の声音は、これが今生の別れだということを充分に知っているものだった。巴の眸は、挑みかかるように己をまっすぐにみつめている。義仲は女のそのひたむきさに、しらず自分の心がひるむのを、叱咤した。
「わたくしは、幼いころからあなたさまにお仕えしてまいりました」
 切々とした巴の声には、互いにすごしてきた年月の分だけずしりと手応えがあり、いっそう義仲には応えた。
「そしていま、野の果てでも山の奥までもご一緒させていただこうと覚悟し、どのような仰せも受け入れ、殿と首を並べてともに死のうと決めておりました」
 どうぞ一緒に死なせてくれと訴える巴の言葉が、義仲の胸にじわりと染みわたる。
 哀れな。
 女武者として名を馳せ、いまや木曽軍の主力ともなった巴をなごり惜しげにゆったりと目で愛でながらも、義仲は胸の裡で叫んでいるのだった。
 なぜこの女をここまで連れてきてしまったのだろう。ついてくるのを許してしまったのだろう。そして――、どうしてこの女と情を交わしてしまったのであろうか……。
 巴が按上している連銭葦毛の木曽馬は、その春風という優雅な名とはほど遠く、木曽に吹きつける春一番のように気性が荒い。巴はいまにも駆けだしそうな春風をなだめるように背首を右手で撫でていた。
 巴のやさしげな手つきが目に入った瞬間、義仲の胸をはるか遠くの記憶が刺した。
 あのときも、巴はこんなふうに馬の首を撫でていたのだった。


 巴とは、まだ義仲が駒王丸の名で呼ばれていたときからの幼なじみであった。
 駒王丸は言葉もおぼえぬうちに父を殺され、母と遠く信濃へと逃げのびたさなか、縁あって木曽の中原兼遠に養育される身であった。巴も身寄りがいなかったのだろう、まだ幼いころから中原の屋敷で下働きとして住み込んでいた。
 貴賤の分け隔てがあからさまな都ではなく、木曽という土地であったのも理由だろうが、子どもたちには身分や生まれなどはまったく関係なかったといってよかった。子どもたちにとっての関心は、だれがいちばん相撲に強く、だれの足がいちばん速く、だれの言いだした遊びがいちばんおもしろいかであり、だれを仲間の頭にすればみんながほぼ公平に楽しい思いができるか、ということだけがかれらのなかで自然にできた掟であり、遊びの音頭をとるのは兼遠の長子で年上でもある兼光をさしおき、大抵は駒王丸だった。
 その駒王丸にも腹立たしいというか、癪にさわる存在がいた。二つ年下の巴だ。そのころ遊び仲間だった子どもたちのなかでは、くやしいことに兼光を除けば巴がいちばん背が高かった。元服して義仲となるまでの駒王丸にとっては、女でありながら、しかも年上の自分とほとんど変わらない目線で、ずけずけと言いたいことを言ってくる巴は、ときとして本気で泣かせてやりたくなるくらいに小憎らしい存在でもあったのだ。
 養父となった兼遠がことあるごとに「若様は八幡殿の曾孫にあたられる」と、言いきかせてきたせいももちろんあったが、義仲は自分が八幡太郎義家の裔であることをなによりも誇りに思っていた。義仲にとっても、自分がもののふの象徴ともいえる八幡太郎に連なる生まれであるという事実は、縁もゆかりもない中原の養父がなぜ自分を引きとって育ててくれたのかという、ふつうであれば当然いだくであろう疑問をまったく消し去ってしまうほどのたしかな拠り所であったのだ。
 長じて思いかえせば、兼遠にしてもまったくの善意で駒王丸を引きとったわけではないはずであり、兼遠は義仲の身に流れている尊くも荒ぶる源氏の血脈そのものに、おそらくなにがしかの価値を見いだしたのだろう。それは元々貴族であった兼遠が辺鄙な木曽に住まう際の箔づけであったのか、己に対する気持ちの張りなのか――あるいは、いつ吹いてくるかもしれぬ風雲のために、駒王丸を通じて大それた夢を見たのかもしれなかった。
 しかし、子どもの駒王丸にはそんな大人の生ぐさい思惑はまったく関係がなかった。兼光の弟で同い年の四郎とは、誂えた足袋のようにお互いにぴったりと気が合ったし、巴も男勝りで――いや、子どもたちにとっては男だ女だととくに区別することもなく、ただの「駒王丸」であり「四郎」であり「巴」であった――自分にとってはよい遊び相手であった。
 三人は身分の差はあれど、お互いの腹のなかはなんの屈託もなく、言いたいことを言いあい、やりたいことをやりあい、犬の仔がじゃれあうように暗くなるまで野山を駆けめぐったものだった。
 巴がふつうの女の子となによりもちがったのは、自分と四郎が言いだした木登りや川での石投げなどの男の子の遊びにもちゃんと付いてきたことだった。取っ組みあいまがいの喧嘩になっても、巴は絶対に泣かなかったし、歳が十になるころには、大人の男よりも馬をよく乗りこなし、義仲や四郎がやることは弓にしろ太刀にしろ、巴も自分でやりたがった。それどころか、いつどこで修練しているものか、いつのまにか腕も上達して、弓も太刀もなかなかの遣い手になっているという具合だった。
 駒王丸は十三の歳に元服して義仲を名のるようになり、おのずから巴も義仲のことを「殿」と、下へも置かぬような呼びかたをするようになった。義仲も最初はそんな他人行儀な呼ばれかたにずいぶん面映ゆい気がしたものの、八幡太郎の末裔であるからにはそう呼ばれて当然だとの気負いもあり、どんな想いで巴が自分をそう呼ぶことに決めたのか、自分が妻を娶り、その妻に初めての子ができたと知ったあの日まで、義仲は気にしたことも想像すらしたこともなかったのだった。
 吉報に矢も楯もたまらず愛馬を駆ったのは、義仲を容赦なく襲ってきた歓びと恐れと不安に駆りたてられたからだった。
 子ども。
 義仲の血を受け継ぐ、八幡太郎義家の裔。
 どこからかやってきて、義仲に生きる甲斐と子を持つ歓びを与えてくれるものであり、一方では、それはまだ若い義仲をむりやりに大人にしてしまい、人をひとりを立派に成人させねばならないという責任を一方的に押しつけてくる未知の存在だった。
 変わってしまうのだろうか。いや、変わらねばならないのだろうか。
 いまのように波立つ感情にまかせて馬を駆ったり、したたかに酔いながら四郎とくだらぬ話で一晩中語り明かしたり――自分はたしかにほかの男とはちがうなにかを成し遂げる男だと夢想したりすることを──まだ姿も見ぬわが子の存在は、自身が少年のような父親を咎め、父親らしくなれと急きたてるのだろうか。
 しかし、山道を疾駆して戻ってきた義仲は、馬屋で飼い葉をやっていた巴の顔を見るなり、歓喜の言葉があふれ出してくるのが自分でもふしぎだった。よく知る巴の顔を見て、はじめて父となる不安と恐れは嘘のようになくなり、この慶事をともにわかちあいたいと素直に思ったのだった。
 だが、巴は馬の首を一頭ずつ撫でながら、ずいぶん堅苦しい口調で祝辞をのべた。
「山吹さまご懐妊の由、祝着に存じまする。おふたりにおかれましては、ますますの弥栄をお祈り申しあげます。殿、よろしゅうございましたな」
 巴は笑っていたが、とってつけたような笑顔だと義仲には見えた。
 義仲はまったく気にくわなかった。巴の口調は、まるで赤の他人に言うかのような物言いだったし、そのくせ人語も解さぬ馬に対しては、愛おしいものに触れているかのようにやさしく撫で、ときおりささやきかける低い声はいたわりと愛情に満ちていた。
 義仲も、こともあろうに巴の態度がよそよそしく、その心が自分とおなじようには浮き立ってはいないのが、くやしくてならなかった。
 たかが馬一頭に、このおれの子が負けるのか。
 まだ山吹の腹もせり出しておらぬうちから親馬鹿丸出しだということは自覚していたが、自分に子ができたという重大な事実も、巴にとってはこの小屋の馬よりも軽いことなのだと思うと、理不尽とは承知しながらも、なにか巴に一矢報いてやりたい気にさせられた。
 からかい半分、惚気半分、そして自慢したい気持ちもなかったとはいえず、義仲はつい子どもの雑言のように、「悔しかったらおまえも早く良人を探して子を授かってみろ」などと、つい軽口を叩いてしまったのだ。
 失言だったと気づいたのは、巴の色白の顔が蒼白になり、それでも眸から感情を読みとられないように長いまつげを一瞬にして伏せたからだった。
 ふたりの間に、かつてなかった種類の沈黙が落ちた。
 「良人を探して」と義仲は言ったが、口にのぼらせたものの、巴がだれかの妻になった場面など、いままで自分は一度も心に描いたこともなかった。
 驚いた。
 巴は年下でもあったし、なかば身内、つまりは妹のようにしか思っていなかったが、なるほど、自分も子を授かるような歳になったからには、巴もおなじだけ歳を重ねているのだ。そういえば道を歩くと、子どものころにいっしょに遊んだ女の子が、乳飲み子を背負っているのに出くわしもするし、巴の歳でだれかの妻になるのも子を産むのも、けっして早すぎるとはいえなかった。それなのに巴の周りには男の影ひとつなかったし、だれかが言い寄っただとか縁談をすすめたという話も、義仲は一度も聞いたことがなかったのだ。
 虚をつかれたあとに襲ってきたのは、したたかに打たれたような思いだった。
 いままで己の両の眼は、巴のいったいなにを見ていたのだろう。
 労をいとわずかいがいしく立ち働き、いまだに馬に乗って野を駆けまわることも多いというのに、巴の肌は抜けるように白くきめ細やかだった。さらに、義仲の言葉に傷ついたことを隠しおおせずに引き結んだくちびるは、男におもわず指で撫でて開かせてみたい衝動を起こさせるほどに蠱惑的にも見えた。そして、一年ほど前までは仔馬のような体つきで、娘らしいというよりは若々しくのびやかだった巴の肢体は、いつのまにか男だったらすれちがったあとにふりかえってもう一度目を楽しませたい、と思うような甘さを秘めている。どうにかして泣 かせてやろうと、子どもの駒王丸が毎日のように思っていた巴の眸は、扇形の濃いまつげに縁どられ、涼やかながらも、義仲の鼓動を速めるほどに艶めかしい。しかしいつも見慣れている巴となによりもちがったのは、白い貌には、幼いころからなにを言っても巧みに言い返してやりこめてきた巴の気丈さだけではなく、諦めのような、うら哀しい憂いもにじんでいたことだった。
 巴にほかの男の影がなかったのは当然であった。妻を迎えてもなお、義仲は巴を側に置いている。巴を義仲の想い者だと、だれもが思っていたにちがいなかった──山吹も、兼平も。当の義仲と巴を除いただれもが。
 気づけば、指が食いこむほどに巴の肩をにぎりしめている自分がいた。
 はっ、と巴は息を呑んで義仲を見あげてきた。
 そういえば、と義仲は温むような心地で思った。
 おれは元服した十三の歳にようやく巴の背を追い越したのだった……。
 元服してすぐに声が急に低くなり、義仲は昔から口敵だった巴にからかわれるのではないかとそればかり恐れていた。三月ばかりは巴どころか、だれともろくに口もきかなかったように思う。
 しかし、大人になるのは女のほうが早いというが、巴は年下のくせに突然「ああ」とか「いや」とぶっきらぼうな片言しか口にせぬようになった義仲に対しても、元服した男子に対する敬意こそ払えど、それまでと変わらぬ親しげな態度で接してくれ、少年から若い男に変貌しつつあった義仲は、それだけで巴にずいぶん救われた気持ちがしたものだった。 それがいま、「殿」と巴のくちびるからおののくようにこぼれ出てきた低い声には、牽制と懇願とが入り交じっている。
 戯れならおやめください、されども――、と。
 義仲は狡くも、巴にそれ以上を言わせぬためだけにくちびるをふさいだが、自身でもわかってはいたのだ。
 これは恋ではなかった。
 いままでものにしてきた女に感じたような、胸を絞りあげる、あのもの狂おしい恋情で巴とくちづけているのではなかった。
 さりとて、かりそめの徒心からでもなかった。
 さきほど自分から言ったものの、義仲は巴がだれかの妻になり、子を産んで育てている光景は想像すらしていなかった。義仲にはいままで意識したことなどはなかったが、巴はすでに己のものであるという、ゆるぎない確信のようなものがあったことに気づいた。それは男女の仲にありがちな艶めいた独占欲とはちがった。その感情には、今日明日にでもこの恋のためならば命すら落としても惜しくはないというような、恋情の大部分を占める烈しくも危ういあやふやさは微塵もなかった。いうなれば、四郎兼平をわが右腕と思うのとおなじような確かさで、義仲はたとえ五十年先であろうとも巴が――妻の山吹ではなく巴が――自分の傍らにいるであろうことを信じることができた。いや、それは義仲としては胸のいちばん奥深い部分で知っている、あらかじめわかっている、とでもしか言いようのない、実感というよりもっと肉身に近い感覚だった。
 義仲は、馬屋の隅に巴を追いつめるように突き飛ばし、かすかによぎる猜疑を黙殺して身体を預けた。
 わずかに抵抗する巴の白い脚を押さえつけ、そのくせすがりつくように絡んできた腕をきつくつかむ。その間にも自分をそらさずにみつめてくる巴の眸が、義仲の心を煽った。
 義仲は巴のしなやかにそった白い喉にくちづけながら、自分に言いきかせていた。
 これでいいのだ。
 だれもが巴を自分の想い者だと決めつけているのならばかまうことはない、事実にしてしまうだけだった。
 それに、巴は……もう逃げない。
 悦びとも苦痛ともつかぬ声が巴のくちびるからこぼれ出たが、義仲は巴を気にする余裕すらなかった。もうひとりの自分は、自分のふるまいをひどくなじってはいたが、義仲にはこれが自分にとって必要な儀式でもあるような気もしていた。
 自分はもう、巴のよく回る口でやりこめられていた駒王丸ではない。背も巴をとっくに追い越し、五人力の強弓も引ける膂力を持ち、こんなふうに巴に有無を言わせぬだけの圧倒的な力を持つ男になったのだ。巴は自分の前に屈服し、たった一本の指を義仲が肌に這わせただけで身をよじり、ふるえ、おののいている。
 どうだ。これがおれだ。次郎義仲だ。
 われこそは八幡太郎の血につながる武士の本流であり、元服の折り石清水八幡宮にて八幡大神に打倒平家を誓いし者。やがてこの血を受け継ぐ子が産まれ、父となるべき者なり。
 荒ぶる血が──義仲の身に流れている源氏の、熱く、禍々しくも誇り高い血が、滾る。
 それは苦しいほどに沸きあがり、怖くなるほどに強烈な感覚だった。
 父はみずからの甥の義平に討たれ、その義平もまた、平氏によって父の義朝ともども滅ぼされた。源氏とは、そういう殺戮がつきまとう血脈でもあるのだ。
 よく知る女を苛みながら、義仲は吼えるように思った。
 同族を屠り、骨肉をしゃぶり、喰らった屍を踏みしだきながらおれたちの一族は歩いてゆくのだ。女ひとりに心を揺らされ、なにが武士ぞ。なにが八幡太郎の裔ぞ。
 刹那、鳥肌がたつほどの鮮明な光景が目のまえに浮かび、義仲が「あ、」と息をつく間もなく、その幻影はどこかへ還っていってしまった。
 理由はわからぬが、義仲は己の末をみた、と確信した。幻と言うには、あまりにも確かで生々しい体感だった。
 おれはやがて京にのぼり、帝より将軍を拝命するであろう――。
 それは稲妻のような天啓であり、途方のない妄想でもあった。しかし義仲の耳にはついさきほど戦さ場で地鳴りのように響いた勝ち鬨がまだ残っており、だれのものか、首を落としたときの骨を断ち切る鈍い感触が手にあった。血のにおいと汗のにおいが鼻腔を刺し、酸味のある唾液を嚥下した後味すらはっきりと舌にのこる。
 義仲は、光が強いほど影も濃いことを、理屈ぬきに理解した。将軍という武将としての最高の地位と耀やかしい栄誉は、生ぐさいにおいに胸が腐るほどに血を浴びながらの勝利と引き替えにしてしか手に入らないことを義仲は知ったのだ。
 打倒平家を誓いながらも、まだ人を殺めたこともなければ、じき父親になる義仲にしてみれば、垣間みた自分の将来は想像していたよりもずっと峻烈なものだった。
 おれ自身が傷つくのはいい。志半ばで斃れるのもかまわない。だが……。
 自分のためにだれかが傷つき、あるいは命を失うことになっても、はたして自分は平然としていられるのだろうか。
 義仲の背中にふるえが走った。想像するだけでも恐ろしく、苦しく、厭わしい。
 身を固くした義仲の気配にただならぬを感じたのだろうか、巴がそっと頬に手を伸ばしてきた。頬をすべる巴の指はひんやりと心地よく、ふしぎなことに濡れていた。
「……殿」
 巴が美しく弧を描く眉を寄せていぶかしげに訊いてきた声で、義仲は自分が泣いていたのだと気づいた。
「義仲さまとあろうお方が、いったいなにをお気に病んでおいでなのですか」
 巴の声で、いきなり目の焦点が合ったような気がした。いまだしびれたような頭でも、この女がなにを言っているのか、なにが言いたいのかが、胸をひと突きにされたようにはっきりとわかる。自分の身に源氏の血が流れている意味も。
 どんなに嶮しい道を駆けても馬を脚のように乗りこなし、親が討たれても子が討たれても骸を乗り越え、同族の血を啜りながら戦う、源氏という血族の存在の意味が。
 しょせん自分はそういう類の人間なのだろう。神でもなければ仏でもない。源氏の血を引く武士であるというだけだ。
 流れた血とおなじ分量の涙を流したとしても、義仲はさっきの確信を実現することにすでにどうしようもなく執着している自分を自覚せずにはいられなかった。たとえ近き者、親しい者、愛する者や信頼をよせてくれる者を失い、悲しませ、自分が滅びることになったとしても、この餓えは満たされることはないだろう。
 義仲は、自分が何者であるのかをはっきりと悟った。自分がいままでなにを欲しているのかもわからなかったが、すべてが腑に落ち、進むべき道が一本、目のまえにまっすぐ開けている気がした。
 義仲は一度おおきく身をふるわせた。心が充分に満たされ、そのくせなにかが欠けているような、ひどく頼りなくて尊く思える感情に身体が追いつかなかったのだ。
 この女は──巴という女は、義仲にとって妻以外の名を持つすべてであった。
 巴は幼なじみであり、下女でもあったが、友であり、妹であり、ときには姉にも母親にもなった。巴の言葉は義仲を微笑ませ、苛立たせ、怒らせる。無条件によせてくれる信頼は義仲を叱咤し、あるときには気弱にも苦しくもさせた。だがこの女の笑顔は義仲をときには泣かせ、慰撫し、奮い立つほどに強くさせるのでもあった。
 どこまで走れるのかは義仲にもわからなかったが、巴のひとことは義仲の背を押した。いや、馬に鞭を入れるかのようだった。
 命が尽きるその瞬間まで、おれはもう止まらないだろう。鼓動が絶える寸前まで、足掻き、悶えながらも奔ろうとするだろう。
 いまこそわかった。この女はおれの写し身なのだ。
 自分の半身が右腕でもある兼平であるならば、巴は女の姿を借りた分身だと言えた。
 この女は、おれとおなじように遠く見果てぬ夢に焦がれ、胸にはその想いに消えぬ焔を宿している――。
 そう、山吹はいずれ自分に失望してしまうのかもしれなかった。しょせん妻は赤の他人、山吹が自分をうらぎり、あるいは見切りをつけてしまうこともこの先ないとはいえなかった。だが巴は自分とおなじものを見ている、と義仲には信じることができた。あの土埃のなかで源氏の旗がひるがえるさまを、鳴りひびく勝ち鬨に、生き残ったすべての者の腕に鳥肌がたち、胸をふるわせたさまを。
 しかし……先に身体を離したのはどちらだっただろう。すべてが終わったあとには苦渋の悔恨がつきあがってきた。
 ふたりの間に積もってゆく、まだ整っていない呼吸の多さは、おたがいになんの言葉も思いつかない証だった。
 おれは、なんということをしてしまったのだろうか。
 相手はだれでもない、巴であった。幼いころからよく知る幼なじみであるという気安さと、子どものころからの延長でしかなかった間柄からか、義仲は巴には女という生々しさと新鮮さを感じることもほとんどなかったのだ。幼きころから妹のように接してきた巴は、義仲のなかではもはや肉親であり、側にいてあたりまえの存在であり、だからこそ己の肉欲の対象とはなりえなかった女であったはずなのだった。
 その巴と契ってしまった。
 義仲は、巴の瞳をまともに見ることができなかった。動揺と後悔に、なんの言葉もみつからなかった。
 どんな女とであろうと、こんな馬屋の隅で慌ただしげに情を交わすような無粋なことはしなかったのだ。山吹は美しい寝具をわざわざ誂えて輿入れしたし、岡場所の遊女ですら、商売道具の布団はそれなりに贅を凝らしていた。それが巴とはどうだろう、獣のにおいの混じる薄ぐらい小屋の隅で、衣類を解くのももどかしげに手荒く成してしまったのだ。なによりも、その女が巴だということが義仲を打ちのめした。
 ひどい男だとなじられるのか、軽蔑されるのか、それとも憎しみの目を向けられるのか……どれも自分に向けられる非難としては妥当だとは思ったが、その恥ずかしさにとても耐えられそうにもなかった。
 自分のしたことを棚にあげ、袖についた糸屑を払うように素知らぬ顔をするか、誘惑したおまえが悪いのだとなすりつけるか。いや、それよりも義仲は、できることならばふたたび馬を駆ってこの場から走り去ってしまいたかった。
 されども、と義仲は奥歯を噛みしめた。
 自分は巴になにかを示さねばならなかった。
 すでに妻も娶り、子まで成した身となれば、巴とあらためて夫婦になるわけにはゆかぬ。それでも身勝手に契ってしまった義仲は、巴が受け取るかどうかは別にして、おのれの誠意とでもいうべきものを差し出さねばならなかった。ほかの女ではなく、巴だからこそ、自分はそうせねばならないのだった。
 ようやく覚悟のできつつあった義仲に、巴は気丈にも声をかけてきた。
「殿」
 意を決して向けた義仲の視線の先にあったのは、乱れた襟元をきちんとかきあわせ、そっと手をついた巴の姿だった。
「どうぞ、末永くかわいがってくださいませ……」
 なんと不憫な。
 巴は巴でみずからの領分をわきまえているのだろう。好いているとも、妻にしろとも口にせず、ただかわいがってくれとしか言えぬ巴のことがいじらしくもせつなく、義仲の胸を射た。
 終わったのだ、と義仲は思った。それは胸に痛いほどだった。自分が子どもでいられたのは、さっき巴の肩に手をかけた瞬間までだったのだ。
 人は、我が子ができ、親になるから大人になるのではなかった。白か黒か、善か悪か、好きか嫌いか――そんな単純には割りきれない世界に足を踏み入れ、自分が何者であるかを自覚したときに子どもではいられなくなった自分に無理やりにでも気づかされるのだ。
「面をあげよ」
 まだ胸の裡が波立ってはいたが、真摯な気持ちで義仲はうながした。
 幼いころは、意地をはって涙を見せぬ巴をなんとしても泣かせてみたくて、ずいぶんひどくからかったり乱暴なこともしたが、伏した巴の姿は、義仲にそんな幼いころの無邪気で残酷な自分を思い起こさせた。遊び友だちは男も女もたくさんいたが、あのころはたしかに巴という女の子がいちばん好きだったのだ――。
 義仲は巴の白い指をにぎりしめて言った。
「……相わかった」
 義仲の承諾の声は、ひからびた喉から絞り出したようなものだった。
 相わかった。骨身にしみた。
「詫びは言わぬ。そなたの本意でもなかろう」
 連れてゆこう、と義仲は思った。
 どこまでゆけるかはわからないものの、自分の背中は女ひとり背負えぬような柔な背中ではないはずだった。これからさき、何百、何千もの死者を背負い、それでも歩いてゆかねばならぬ背中だった。
「この義仲こそは平氏を討ち果たし、帝より将軍の任を賜るべき者である。巴、しかとその目で見届けるがいい」
「お供のおゆるし、光栄にござりまする」
 義仲の気持ちを悟ったのか、巴の声は一条の光のようにまっすぐで晴れ晴れとしていた。 ひれ伏す巴を見ることもなく、義仲は馬屋をあとにした。ふり返る必要はなかった。巴はこれから先もなにも言わずとも、あの一途な眸をこらし、自分の後ろにしっかりと付き従ってくるはずだった。
 明るい陽の光をあびながら、義仲は心が凪いでいるのを好ましく思った。巴への想いは、灼けつくような烈しいものではなかったが、灰にうずもれても消えることのない炭火のように、いつでも義仲の胸を温めてくれるものだった。


 この女も不運な男に当たったものよ。
 巴の見開いた眸をみつめながら、義仲は自嘲せずにはいられなかった。
「なんと、甲斐のないッ」
 巴はふるえる声をぶつけてきた。怒りに駆られたのだともくやしさに昂ぶったのだともとれたが、本気で言っていることは義仲にもわかった。
「どちらがより多くの敵を倒すか競おうではないか、となぜ仰せくださらぬのか。わたくしは殿からこんな言葉を聞くためにお側にお仕えしていたのではありませぬ」
 昇っていた朝日もいつのまにか落日の間際にあり、巴はいつも戦場では強気なことしか口にせぬ普段の義仲を逆手にとって、義仲の温情をなじった。
 相変わらずおれをやりこめるのが巧いな、と義仲は苦笑がこみあがってくるのを感じた。最近では巴はめったに義仲の言葉に異を唱えることはなかったのだったが、さすがに承伏しかねるのだろう。
「殿と最後までご一緒したいという一念だけで、女の浅はかとは承知しながらも、この四年というもの、矢羽根の雨をかいくぐり、春風を駆けどおしに駆けさせてきたわたくしの気持ちを――ここまできて、こんなところまできて殿は……」
 あとは言葉にはならないようだった。巴は泣いていた。子どものころにどんなに意地の悪いことを言っても、あの馬屋で手込め同然に契ってしまったときにも、一切涙を見せなかった巴が、泣いていた。
「まあ、聞け。そなたにはおれの最後の供よりもやってもらいたいことがあるのだ」
 当然だ。切々と訴えられている義仲にしても、巴の一途でひたむきな気持ちを、こうまで踏みにじってしまってはただ黙るしかないのだが、それでも義仲は続けた。
「まことにそなたの言うとおりだと思うが、おれは去年の春に信濃に妻子を置いて出てきた」
 巴がはっと息を呑むのがわかった。
 おれはひどい男だ。ある意味女を捨てて自分に従ってきた巴のまえで、山吹と義高のことを理由に使うとは。しかも自分は山吹のことを出せば巴が途端に弱腰になることを知っている。
 ぎりぎりと胸のあたりで音がきこえてきそうな気がしたが、あえて義仲は言葉を継いだ。
「二度と会うこともなく別れるのが実に辛いが、おれが亡きあと、おまえにはこのことを山吹に報せ、よく弔ってくれるよう頼んではくれないだろうか。そのためにも速く忍び落ちて信濃へ下り、おれの最期をみなに語ってくれ」
 これが最後だ、と義仲は思った。自分は何度も巴を裏切ったが、これが最後で、しかも最大の裏切りだろう。こんな自分に愛想を尽かし、速くここから逃げてくれたら、と。
 なにしろ、木曽軍の総大将である自分は、良人として、父としてよりも、あくまで武人として死なねばならない身であった。そんな男の理屈に女である巴を従わせる気は義仲にもさすがになかった。
「敵もまだ手をゆるめないと見えるぞ、早くゆけ、巴。早く」
 見渡すとたしかに、騎馬たちの駆けてくる姿が遠くに見える。
「――承知いたしました。そう仰るのが殿のご命令であれば、巴は従いましょうぞ」
 巴は涙を拭い、決意を秘めた声で義仲に言った。眸はまるで義仲に挑戦しているようであった。
「しかし、それならばこの巴は良い敵に会って、最後の戦をしてみせましょう」
 なんと。女であることを戦から遠ざける理由にした義仲に対し、巴はあくまでも武人と して最後まで戦ってみせると宣言したのだ。これはほとんど最後まで自分が女であることを黙殺してきた義仲と自分自身に対する、巴の意地のようなものもあったのかもしれなかった。
 負けた。
 義仲はこのときほど痛感したことはなかった。そういえば自分は昔から巴には言い争いで勝てたためしがなかったのだった。
 気持ちよく出し抜かれたような、ふしぎと痛快な気分になり、義仲は愉快そうに哄笑した。
「そなたは強情な女よの。わかった、あれなる敵をそなたにやろう。存分に戦うがよい」
 義仲が視線を向けるあいだにも、さきほど遠くに見えた三十騎ほどの敵が姿をあらわしてきた。
「われこそは武蔵国、御田の八郎師重なり。そこにおわすは木曽の大将軍、次郎義仲殿とお見受けする」
 大音声で名乗った大将とおぼしき人物は、武蔵国で評判の大力、御田八郎師重であった。
 手綱を引き絞り、待ちかまえていた巴は応えて名乗りをあげた。
「まこと良き敵かな。御田どのにはこの巴がお相手つかまつる。女と思うてのお手加減は無用に願いまするぞ」
 巴の凛とした声を聞きながら義仲は胸が熱くなってきた。駒王丸どの。義仲どの。殿。……この声で自分の名を呼ばれることはもうないのだ。もう永遠に。
 引きちぎられるように身体が疼む。正しく、巴は自分の分身であったのだと苦しいほどに義仲は感じた。
 惜しい。巴を手放すのがいまさらながらにこんなに惜しくなるとは予想もしていなかった。しかし、だからこそ手放すのが正しいのだ。
「巴、見事討ち果たして見せい」
 義仲の声に、巴はわずかにうなずいて春風に鞭を入れた。自分の隣から巴が駆けてゆくのがゆっくり、はっきりと見える。
 そのとき、義仲は自分の耳元を颯とした風が吹き抜けていった気がした。
 さらばだ、巴。
 義仲は詠嘆して刹那、目を閉じた。
 感じたのは――川面は日差しを受け煌めき、川岸には薄く色づいた新しい葉とともにちいさな花が敷物のように広がっており、新しい匂いがそこらじゅうに立ちこめていたなか、わけもなく晴れた空を見あげては美しい日々を充分に堪能し、それだけで満足であったころに吹いていた風――四郎や巴たちとなんの屈託もなく駆けまわっていたころに、巴の長い髪を梳きあげていったあの春の日の心地よい風とおなじだった。
                                      





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