鬼火
−壱−



 やわらかな女の寝息が耳にかかるのをいくぶん甘い気分で感じながら、斎藤はさっきから闇を見つづけていた。
 目を凝らしてもなにかが見えるわけでもなかったが、その漠と広がる深い闇に自分という存在が吸いこまれてゆきそうな気がして、いいしれない恐怖と、なにかきりのないこの不安に決着がついてしまうような安堵を同時に味わっていた。
 ときおりわけもなくぞっとするのは、かれが危ない橋を渡っているからで、そういった意味ではどっちに転んでも禍根を残さずにはいられないことも、かれは知っていた。


「折り入って頼みがあるのだが」
 そう言った土方の押し殺した声が、まだ斎藤の耳に残っている。
「宿所で話せる話ではないのだが、出られるだろうか」
 持ってまわった嫌な言いかたをする、と斎藤はそのとき思った。
 土方の切りだしかたは意味深長で、聞いてしまった以上は拒絶をゆるさないような響きも持っていた。断れば、自分は新選組から排除されるのだろう。そして謀略を知った人間をそのままあっさりと野放しにするほど、新選組は懐の深い組織ではなかった。
 しかし、断れば殺されるだろうということよりもまず、謀略の片棒を担ぐのに自分に白羽の矢が立ったという事実が、斎藤の身を寒からしめた。
 気づかれたのだろうか。
 ――会津の間者だということが。
 あまりにも周到に囲いこまれたことがなんとも悔しくもあり、また感嘆する思いでもあった。
 新選組ってのは、どこまでいっても陰湿な連中のあつまりだ。
 斎藤の正直な感慨を言えばそうなるし、非難するのは簡単ではあったが、みずからも会津の命をうけて新選組の動向を報告する身であれば、自分の薄汚さこそを思い知るだけだった。
 たしかに、いまの時勢に志士などと称して政治活動を行っている連中で清廉潔白な人間などはいなかった。斎藤ももちろん例外ではない。志士も大物になればなるほど敵が多くなり、後ろ暗い所業に手を染めているものだが、斎藤のような一介の志士とちがうのは、大物は自ら手を汚すことが少なくなってゆくということだ。水の流れとおなじように、汚れ仕事も高いところから低きへ流れるのは自然なことなのだろう。
 そしてその汚れた所業の発端の多くも、程度の低いものだと思わざるを得なかった。口を開けば志士たちからこぼれ出る高邁な理念も理想もほとんど関係はなく、一皮むけば、面子を潰されたといっては激高し、相手が自分よりもいいものを食い、志士仲間のあいだで名前が売れ、佳い女を抱いているのがとにかく気にくわないだけにすぎない。
「伊東先生は新選組を分離したいそうだ」
 土方の声は日課でも読むように淡々としていたが、そのこと自体が土方の憤りのすさまじさを物語っていた。衆人の前でなければ伊東を「先生」などと呼ばないくせに、わざとらしく「先生」呼ばわりしたことからも知れる。となりの近藤は腕を組んだきり、ひとことも口を開いていなかった。
 伊東参謀が新選組から離れる――。
 斎藤はいよいよ来たのだと思った。もはや隊士のだれもがいずれはそういう流れになるのだろうと予想してはいたが、現実にそんなことができると思っていたのはほとんどいなかったにちがいない。なによりも新選組は離反者を許さず、それが参謀という幹部であるならばなおさらその縛りは強いだろう、と皆が思っていた。それを伊東がぶち壊してゆくのだ――新選組を。
「伊東先生からはまだ正式な申し入れはないが、ゆくゆくは分離の方向で話が進んでゆくだろう。そこで斎藤くん」
 斎藤くん、かね……。
 斎藤は心中苦笑した。これはどう転がってもろくな話ではないと察しがついたからだった。
 土方という男は、気むずかしいくせにひどくわかりやすいときがあった。特に人の好悪に関しては自身でも自覚があるのだろう、嫌いな人物の名を口にのぼらせるのにことさらていねいに呼んでみたり、あらたまるとまわりが気恥ずかしくなるほどに敬称をつけたりする。
「きみには伊東先生と行動を共にしてもらいたい」
 なんと。
 土方から言われた瞬間、思わず視線が近藤をさがしたが、近藤はかるくうなずいてみせただけで、近藤と土方のあいだでは計画の摺りあわせがじゅうぶんできていることが知れた。
「つまりは密偵、ですか」
「そうだ」
 否定もごまかしもしない土方の声は、潔ささえ感じた。頼みごとの汚さも重さも、じゅうぶんに知ってなお、押しつけてくる強引さが斎藤を圧倒してくる。
「否という返事は――」
「受つけねえ。斎藤くんにはぜひにやってもらうつもりでいるし、断るのはあまり賢い選択ではないな」
 土方がしゃべっているあいだ、近藤がさりげなく組んだ腕をほどいたのがわからない斎藤ではなかった。近藤も土方も、刀は左に置いている。つまりいつでも抜けるということだ。
「わたしが寝返るということもあるでしょう」
 じわじわと包囲を狭められているようで、それが斎藤には気に入らなかった。受けるにしろ――受けざるを得ないのはわかっていたが――二つ返事で承諾したのだとは思われたくはなかった。
「……斎藤くんは世間知らずだな」
 土方は兼定を引き寄せ、脅しあげるように声を低めた。
「本当に寝返る人間は、事前にそんなことは言わないものだ」
 引き絞られた弓のような緊張がその声にはあった。三十六計を決めこむにしてはあまりにも不利だった。それに強いて断る理由も、嫌悪という感情以外の理路整然としたものは斎藤にはないのだ。
「――わかりました」
 承諾しながらも斎藤は、自分のなかでなにかを失ってゆくような感覚に鋭い痛みを感じていた。
 女を捨てたことも一度や二度ではないはずであり、金で会津に新選組の情報を売り、何人もこの手で殺し、巷にあふれる志士たちとやっていることはすこしも変わらないにもかかわらず、それでも斎藤は胸につまる嘔吐感に耐えながら、これが今まででいちばんひどい仕事だ、と噛みしめるように思った。
「引き受けてくれると思っていたよ」
 今日はじめて聞く近藤の声だった。
 なるほど、駄目を押すわけか。最後の最後にあんたが発言する――それが新選組局長というものの権威というわけだ。
 意地悪く思った斎藤が見たのは、意外にも慈愛とでもいうようなものにあふれた近藤の眸だった。
 なにかに打たれたように斎藤は悟った。
 近藤も土方も、いわば会津の手足となって泥水をかぶってこそ現在があるのだった。新選組の勇名が一躍馳せることになった元治元年の池田屋の斬り込みでは、後援の会津ですらも手を貸さず、わずか五人で突入したのだという。それにもまして、根が真面目な近藤が京でなかなか政客として認められず、人斬り集団の親玉としてしか認識されない苦悩を、斎藤もつきあいが長いぶん、まったく知らないわけではなかった。
 それでも、おれたちとおなじ苦い水を飲めと強要するようなやりかたは、斎藤の好みではなかった。
「どうやら断ることは無理なようですし、ここはわたしの筋を曲げてお引き受けいたします。ただ、生意気を言うようですが、わたしも承知しかねるご依頼をあえて承りました。そこで、これはわたしがご両人にひとつ貸しをしたということでご承諾いただきたい」
 今後その「貸し」を取り立てるかどうかはわからないが、自分を高く見積もって恩を売り、釘を刺しておかねば、またいいように自分を使われてしまうような気がした。
 近藤と土方は、斎藤の言葉に目と目を交わしあった。
「承知した」
 言うなり土方は一寸ばかり兼定を抜き、鍔鳴りをさせて鞘に収めた。金打だった。
「高い貸しかもしれねえがな」
 くちびるの端を引きあげて土方はつぶやいた。 


 ――あのとき自分が承諾した理由はなんだったのだろう。
 断れば殺されると思ったからではなかった。たしかに生命は惜しかった。市内巡察で死番を勤めようと、白刃が身をかすめようと動じる斎藤ではなかったが、それでもこんな死にかたをするのであれば、たしかに生命は惜しかった。
 おまけに新選組に嫌気がさしたのだと伊東たちに思わせるために、わざわざこうやって妓のところに流連しているというのだから、この道化芝居にも念が入っている。
 女が寝返りをうち、耳をくすぐっていた寝息が遠のいていった。
 おれがどんな人間か知ったならば、この女もけっしてこうやって眠ったりはしないだろう。
 自嘲してついたため息はわれながらずいぶんと酒臭いと感じた。
 酔っているのかもしれないな、と斎藤は目を閉じた。 






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