神 鳴

 

 

雨の匂いがする。

 夕立がやってきたのだ。

 元治元年四月──。

京の巷ではいまだ「壬生浪士」と呼ばれることのほうが多い新選組の幹部三人は、ここ島原の大店、「木津屋」でさきほどから顔をつきあわせていた。しかし、まだ灯りもともらぬうちから遊郭に上がりこんでいるのは、もちろん遊興のためではなかった。木津屋は島原の遊郭のうちでも新選組と特に懇意にしている店であり、たまにこんな──屯所でははばかられるような話し合いをするときなどは──店のひと部屋をこうやって借り切ることもあった。

この日は局長の近藤勇が提案し、木津屋にそろったのはその近藤と総長の山南啓助、そしてこの密談にはまったく気の乗らなかった、副長の土方歳三である。

歳三たちが、江戸より上洛して一年あまりがすぎた。

都の水にも慣れ、いまの時期ならば、上賀茂の大田沢の杜若を愛でながら妓たちとの恋ごとを深く祈願するのもよかっただろうし、まぶしくなりつつある新緑のように新選組も意気揚々、飛ぶ鳥を落とす勢いであってもよいはずだった。しかし、木津屋にあつまった男たちは、さっきから陰鬱な沈黙にのしかかられているせいか、まるで立ち枯れた晩夏の向日葵のように頭を垂れていた。

雨が瓦を叩くかすかな音がきこえ、歳三は窓辺ににじり寄った。

 格子窓をあけると、ぽつりぽつりと地面が濡れて黒くなってゆくのが見えた。空は一面、真っ黒な雲に覆われ、彼方の雷鳴がしきりにきこえる。この雨神は、ずいぶん気の短い雷神も誘ったとみえて、どうやら連れだってこの王城の地を巡幸するつもりらしい。

もうじき五月に入るとはいえ、この二、三日はひどく暑い。

 この雨で、すこしはしのぎやすくなるといいのだが……。

 歳三は煙草盆を引き寄せて、もの憂くそう思った。

「これでどうだろうな」

 うかがうような近藤の声を、歳三は背中で聞いた。いつもならよくひびく男らしいその声は、いまは力強さも自信もまったくなかった。ただ、なげやりなだけに歳三には聞こえた。

「では、拝見しましょうか」

 山南は近藤が差し出した書状を手にとったのだろう、紙を広げる気配と、山南のかすかに唸る声がする。

 歳三はただじっと動かず、不穏な空を見つめていた。しかし、実際に見ていたわけではなかった。

こんなはずではなかった。

熱くたぎるものが全身をかけめぐり、叫んでいた。

いや、これがおれたちの限界なのだ。

そして心のなかで常に闘っている不安も、同時にしのびよる。

 めまぐるしく交錯する感情が、歳三の心を翻弄する。そしてこんなふうに相反する想いもまた、かれにとってはどちらも真実なのであった。

じりじりと炙られているような焦燥に耐えようと、歳三は爪が手のひらにくいこむほどに拳をにぎりしめていた。

 

                   ■ ■ ■

 

新選組の周囲にただよう暗雲は、年明けからうっすらと広がりつつあった。

この年まさに甲子年で、二月に文久から元治と元号があらたまったのは、甲子改元のためである。

中国ではふるくから、干支一巡の六十年に当たる辛酉年と甲子年には、革命が起き、世が乱れると言われる。そんな説をほとんどの人間は意識したこともなかったにちがいないのだが、そんな「革命説」もあながち嘘ではないのではないか、と信じたくなるほどに政情はゆれ、新選組にも激震が襲った。

まずは新選組の親元ともいえる会津藩主・松平容保が病に伏し、そのうえこの二月、改元に先立って京都守護職から陸軍総裁職、さらに軍事総裁職に任じられた。容保の、そして会津藩の京都での実力と実績に、幕府がなによりも容保の着任を切望したためでもあったが、その一連の人事に新選組は動揺した。

新選組は、いわば京都守護職に連なる外部組織という立場であり、容保が京都守護職を離れるとなると新選組も容保から切りはなされてしまうのだ。福井藩主・松平慶永が容保の後任となったが、近藤たちが容保を慕う気持ちには特別なものがあり、かれらとしては慶永を上に戴くことを認めることはできなかった。

そもそも近藤たち浪士組が京都残留を決めた際、黒谷に陣を張る会津藩をたずねてその麾下に入りたいと申し出たのは、いくぶん身のほどしらずな嘆願であった。それを畏れ多くも意気に感じ、快く受け入れてくれたのは、近藤や歳三とほとんど歳の変わらない容保その人である。のみならず、会津藩でかれらを抱えて身の保証を担保し、生活のうえでの今日、明日の心配をとりのぞいてくれさえした。

浪士といったところで、かれらは身分も定かならぬごろつきとおなじようなものであった。将軍の護衛として関東から上洛してきたものの、しょせんかれらは余所者であった。京の人びとが諸手をあげて歓迎してくれるはずもなく、その当たる風もずいぶんと冷たい、身に応えるものだった。そして壬生に居着いたかれら壬生浪士を、いまだに「壬生狼」とさえ呼んでいる。

そんななか容保はかれらの志を認め、きちんとした士分に採りあげてくれた。いわば敵地にのりこんだかれらにとって、それがどれほど誇りとなり、支えとなったことか。

浪士組、いや新選組はその容保の温情に奮い立ち、文字どおり命を賭して王城の地を駆けずりまわっている。しかし、言葉も交わしたことのない徳川将軍のためにというよりは、いまはむしろ、この会津の貴公子のために、その赤誠をささげているといったほうがよかった。

そして京都守護職ではなく、容保その人の配下に入ることを文字どおり嘆願した結果、従来どおり会津藩付属となった新選組ではあったが、肝心の容保はいまだ全快せぬ病を理由に京都守護職の復職をかたくなに固辞しつづけて、新選組としては内心不安な日々がつづいているのである。

また徳川将軍家茂は前年にひきつづき、朝廷からの要請で年明け早々からふたたび上洛し、いまだ滞京していた。

この将軍の再上洛に対しては、倒幕の急先鋒でもあった長州勢が京都から追放されていたため、当初は公武合体策の実現が現実味をおびていた。そして、朝廷より将軍に迫られていた攘夷に対しても、なにか具体的な方策がうちだされるのではないかという期待が高まっていた。

しかし──、

なにひとつ事態は変わっていなかった。公武合体の動きもまったくないまま、将軍の帰東もちかいのだとの話もあった。そして長州系の浪士たちの不穏な噂がいまだに絶えずささやかれていることもあり、攘夷を大儀にかかげて上洛したはずのかれらは、不逞浪士を取り締まる市中見廻りに忙殺されている──。

これはまさに、頭では右にゆけと命令しているのに足は左に踏みだしているのとおなじことだった。かれらの本来の目的とは大きく乖離してしまっている現状に、結成当時からの隊士たちはみな、少なからず虚しさを感じている。そしてその現実との落差も原因の一端であったのはまちがいなかったが、隊士たちにそんな虚しさを強いているのだという事実こそが近藤を追いつめていた。木津屋に歳三たちがあつまったのはまさにそんな折り、一向に治る気配のない胃痛を抱える近藤の、ながい苦悩の末のことだったのだ。

 





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