奈 落


この日も雨だった。

「ううっ……!」

近藤が振りおろす鞭が血みどろの背中を打つ音と、それを抑えこむかのように苦悶するうめきごえが歳三の耳を穢す。

「まだ吐かねえのか!」

近藤の声は怒気をふくんではいるものの、受難者への驚嘆とも嘆願ともとれた。そしてその顔は、鞭打たれている男と変わらぬほどに憔悴し、消耗していた。

「もういい、局長。あとはおれがやる」

口のなかの苦いものを飲みくだしながら歳三は言った。そしてその握っている鞭を受けとろうとうながしたが、近藤の手はかたくこわばってすぐには開かず、その肩は荒い呼吸のためか大きく上下していた。

近藤の瞳はせつな逡巡したが、歳三のことばにあきらかに救われたようでもあった。

「……しぶといぜ」

本心をいえば自分がなにをやっているのか直視したくはないのだろう、わずかに目を伏せて近藤は嘆息した。そしてこの土蔵の明かりとりのちいさな窓に視線をむけた。歳三の視線も自然にそちらへ向く。

霧雨になったが、まだ、雨は降りつづいている。

「いいさ。おれが落とす」

いまいちど近藤を見すえて、歳三は断言した。

「きみたちも交替するがいい」

視線で近藤を扉へうながし、しばりあげた男をつかんでいた隊士たちにも休息を命じた。

「──ああ、たのむ」

鞭の柄からようやく指をひきはがし、近藤は歳三にその責め具を託した。

「今朝に封印した土蔵が破られたらしい。もういちど会津に頼んでみたほうがいい。それも早く」

歳三がこの土蔵にやってきたのは、これを伝えるためでもあった。

瞬間、近藤の目に生気が宿り、みずからの使命に燃え立ったようだった。やはりいくら不逞の輩とはいえ、無抵抗の人間をなぶりまわすよりは、全体の指揮をとるほうが気合いも入るにちがいなかった。

近藤が外に出るまでのほんの一瞬、外の光が土蔵のなかに入りこんだ。そして近藤が出たあと、ふたたび扉がかたくとざされ、土蔵のなかは薄闇にみたされた。

歳三はゆっくりと男にちかづいた。近藤に託された鞭を両手でかるくしなわせる。

「……さあ、これからが本番だ」

 降りつづいている雨ですら、凍りつきそうな歳三の声だった。

 それがわかったのか、縛られた男はわずかに動いた。本能的に逃げようとしたのだ。

 歳三は闇のなか、小窓からさしこむ薄明かりをおのれの肩でさえぎった。そしてひとつおおきく息を吸った。

 ひんやりとすえた蔵の空気が、歳三の四肢のすみずみまでゆきわたる。

 この蔵には、おぞましいものが淀んでいた。

 いままでこの蔵で拷問を受けた者が流したおびただしい血と、悪夢の果ての呻き声、そして秘密を守り通そうとして果たせずに裏切り者となった慚愧の残留──そんな、おもわず入った者の足をすくませ、なにか人をぞっと身ぶいさせるものに満ちていた。

 そしてその血なまぐささに身を浸すのは、歳三にとってこれからはじめる残酷な所業には、ぜひとも必要な儀式でもあった。


「──副長の土方だ。おれは局長ほどには甘くはないぜ。あんたもそれをいやというほど思いしるだろう、古高さんよ……」

 歳三の声には昂揚したところがまったくなかった。しかし、鋼のような意志を秘めた声であった。

 歳三は疼いほどに思っていた。

 近藤を陽のあたる場所へと帰したのだ。

 この薄汚い闇に立つのは自分だけでいいのだ、と。

 そして、この昏がりは醜い自分をいくらかは隠してくれるのではないか。近藤やほかの隊士からも──そして、自分の心からも、と。

 

 

                   ■ ■ ■

 
 攘夷を決行しなければ解散も辞さない、という「上書」を提出した新選組は、さらに五月中旬、将軍の帰東警護のために大阪へ下阪したときに近藤みずからが老中・酒井雅楽頭に会って、その進退について問うた。

 しかし、近藤は酒井からそのまま市中見廻りの任をつとめるよう説得され、なおも幕府は念押ししようとしたのか、将軍警護の功労として新選組が帰京した直後に銀百枚が褒美として与えられたのだった。

 
 近藤も歳三も、いいしれぬ危機感をもっていた。
 
 こうやって新選組は飼い慣らされ、そしていつかは与えられた餌だけに満足してしまうのではないだろうか──。

 なにか手柄がほしかった。実績がなければ、それこそ売りこみもできないのだ。
 
 そんなふうに「頭」が悩めば「身体」に影響が出ないはずがない。隊内の規律はゆるみ、脱走もふえ、男色も流行した。
 
 しかし、組織全体として士気が低下するなか、幸か不幸か、六月に入ってすぐに、大物につながる捕物があったのである。
 
 大物志士の名は宮部鼎蔵。

 肥後出身の兵学者でもあるが、吉田松陰とも親交の篤い肥後勤王党の総帥である。

 
 新選組が鴨川の東岸で捕縛したのはその宮部の下僕だった。

 一向に口を割らなかったため拷問で追いつめたところ、長州浪士が思いのほか入京しているとの情報をつかんだのだ。

 四月に木屋町で火災があった折りにも不審な人物をとり押さえ、長州屋敷の門番だと名のるその男は長州人、二百五十人が京都に潜伏していると白状した。そのときから事態はまったく好転していなかったのだ。

新選組は騒然となった。監察はもとより、一般の隊士も昼夜をわかたず抜刀したまま市内を探索し、刃傷沙汰になることも数度あった。

そんななか、監察方がひとりの商人のことを歳三に報告してきた。不審人物である、というのだ。

男の名は桝屋喜右衛門。

歳のころは三十八、九で、妻もおらず使用人もいない。そして商売に精を出すわけでも、近所づきあいもしているふうでもないのに、その店が不相応なまでに広かったのが疑念を呼んだのだった。

そして今朝、六月五日。

 早朝より桝屋方に出向き、主人である喜右衛門を捕らえて屯所にて尋問することになった。その時点では喜右衛門の嫌疑はより黒にちかい灰色といったところだったが、同時におこなった家宅捜索の結果、菰に包んだ鉄砲、具足や火薬、そして多数の志士とやりとりをした書簡や書状がみつかった。

 まさに喜右衛門は「当たり」であったのだ。





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