いまいましいことに、おれたちの持ち駒はこいつひとりきりなのだ……。この男が金なのか歩なのかさえもわかってはいないというのに──。 歳三は気を失った古高を見ながら、かつてないほどの歯がゆさを感じていた。 新選組は斬捨御免の特権ももち、甲冑に身を固め、京都市中の見廻りを日夜おこなっている。しかしその探索もごくかぎられた範囲がかれらの受持ちであり、翻って過激浪士は馬鹿正直に新撰組の受持ちのなかで活動を行っているとは当然かぎらないのだった。新撰組の目の届かないところ、手の出せないところにも、幕府転覆を狙っている連中は勝手に出入りし、潜伏しているのだ。 そんな自由に京の町を暗躍して謀をめぐらせる連中を相手にしているにしては、新撰組は圧倒的に不利な状況であった。京都守護職につらなるたんなる一組織にすぎず、事がおこった後手にまわることを余儀なくされている。そして現在の手駒はこの古高ひとりしか持っていないのだった。 これでどう闘えというのだ。 歳三はもどかしさに荒れる心を鎮めようと、かたく腕を組んだ。そうやってみずから己をきつく縛めておかなければ、自分のなかでまだ飼いならせていないものが表に出てきてしまいそうでもあった。 ひと思いに斬り殺せることができるならば話ははやいものを。 そうやって自分の歩く道のまえに立ちはだかるものをとりのぞき、ひたすら前に進むだけでよいのならばどんなにか楽だろう、ともうひとりの自分はそんな単純な手順を主張している。しかし、京に来て政治というものの一端を知った自分は、ことがそう簡単にはいかないことももちろん承知していた。 古高はまだ黙っている。そのしぶとさは賞賛に値した。が、身体はすでに限界をこえているようであった。感覚が麻痺しているのか、打っても蹴っても苦痛のうめきはその口からは聞くことはできなかった。あるいは、黙っているのは、歳三たちが口もきけないほどにいためつけたせいかもしれなかった。 そして歳三もまた、瀬戸際に追いつめられていた。 このままでは埒があかぬ。無駄に時間だけがすぎさってゆくだけだ。古高の意図がその時間稼ぎだというのならば、その術中にはまったのは歳三のほうでもあった。 何度めだろうか、水をかけられて古高は息を吹きかえした。はげしく咳きこみながらも古高は気丈にも歳三を見た。 そのせつな、歳三の拳が怒りにふるえた。 ぬるい。 古高のいまだ光を失っていない瞳をみとめ、歳三は自分が敗北しつつあるのではないか、と一瞬でも思った自分を厳しく叱咤した。 おれは、なんと甘かったのだろう。 この男は命を捨てにかかっている。それを心のどこかではわかっていたはずなのに、自分はどこかまだ、この男に施しをあたえているつもりになっていた。 この男を吐かせるには、もっとなにかを捨てねばならない──。 歳三は、自分がある一線を越えるのを躊躇していたことをようやく認めた。それは浅くはあったがとてつもなく広い川のようなものだった。むこう岸へわたってしまえば、もう戻れないのではないかという不安が、その一歩をためらわせていたのだ。 しかし、これは挑戦でもあった。古高からのというより、この京都で剣客として生きてゆくために突きつけられた詰問でもあったのだった。 「その梁へ吊せ」 そのことばがくちびるからすべり出た瞬間、歳三のなかのなにかが、死んだ。 あっけないものだった。 恐れていたように、大地が裂けて自分が呑みこまれたりはしなかった。突如として雷がその身をつらぬくこともなかった。 「逆さに吊しあげろ。そしてきみは五寸釘と蝋燭を用意したまえ」 ふたたび命じた歳三の声は、ふるえてもおびえてもいなかった。淡々と日課を読みあげているような口調だった。 「はい……」 とまどいながらもまろぶように土蔵から出てゆく隊士には目もくれず、歳三は古高の目をみつめていた。 おまえがおれを追いつめたのだ──。 悶えるように、思った。 天罰こそこの場で下らなかったが、もう二度ととりもどせないものを歳三は失ったのだった。 歳三のなかで自由にはばたいていた鳥はその白い翼を折られ、もうこのさき永遠に広い空を飛ぶことはないだろう。生まればかりの健気で愛らしい仔猫をそっと両手に包む、そんな気にはもう一生なれないだろう。 その足は、血塗られた狂気の濁流にくるぶしまで浸かっているのもおなじだった。一歩退こうが進もうが、この罪の深さは等しく思えた。 「どうするんですか、副長」 そんな歳三の変貌を感じたのか、古高を後ろ手に縛りなおしている隊士が不安そうに訊いた。 「吐かせる。それだけのことだ」 吐きそうな気分だったのは歳三本人でもあったが、時間がない。もうじき正午をまわる。 「副長、会津も応援を出してくれるそうです。五ツに祇園会所です」 そのとき、そう報告がてらに釘と蝋燭をもってきたのは監察の島田魁である。 「……遅い。ありがたいが、それを待っていたのでは手遅れになるかもしれねえ」 歳三は舌打った。 「ちょうどよかった。島田さん、あんたなら楽に吊せるだろう」 島田は力士と言ってもいいような巨漢である。だしぬけにとんでもない仕事をたのまれた島田は、それでも嫌な顔ひとつせず、古高を逆さに吊しあげた。 これでも古高が耐え忍ぶならば、もう策もなかった。歳三のふりしぼっている気力もまた限界であったし、時間もなかった。 歳三は、ここにいる誰にとっても過酷なことを行った。 古高の両足裏に五寸釘を突き刺し、そのうえに百目蝋燭を立てて火をともしたのだ。 古高の叫びは、いままでのようなどこか理性的なものではなかった。獣のような咆哮が土蔵の壁を穿つようにひびき、いつまでも止むことはなかった。 隊士たちはそのありさまに思わず顔をそむけたが、歳三は食いいるように見ていた。嘔吐感とふるえる脚をおさえつけ、自分のしたことをじっとみつめていた。それが古高の望んでいることなのだろう、とさえ思った。 蝋は熱く溶け、釘を貫き通された古高の傷にじかにふれる。 吐いてくれ。 なかば祈るような気持ちだった。 自分の渡っている川は途方もなく広いように思われた。 とめどなくながれる涙にまじり、うわごとめいたことばが古高の口からこぼれでる。 もうすぐだ。 歳三は息をひそめ、胸のうちで古高をどやしつけた。 はやく吐いちまえ! おれがまだ耐えられるうちに──。 殉死覚悟の誇り高い志士という古高のつけていた面を、熱くしたたる蝋が溶かしてゆくのを見るのはしのびなかった。 古高が呻くたびに歳三の胸も絞りあげられるように痛む。 さっき自分の心は死に絶えたと思ったが、それはどうやらちがったらしい。鬼の所業を自分自身に見せつけるためだけに、いくばくかの良心は残されてあったにちがいない。 「……わかった……」 聞こえたのは空耳かと疑った。それほど弱々しい古高の声だった。 「やめてくれ……すべて、話す……」 猿轡のせいではっきりとは聞きとれなかったが、たしかに古高はそう言った。 そうっと、歳三はとめていたらしい息を吐いた。そのひかえめなふるえる吐息が、ささやかな歳三の勝ち鬨だった。しかし、勝利の高揚感はまったくなかったといってよかった。 かるいめまいが襲い、ようやく四肢にゆっくりと血がめぐってゆくのがわかった。それほどまでに歳三は緊張し、この瞬間を待ちこがれていたのだった。
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